リーバイス501の進化





1900年台に突入し501は進化し続けます

1900年ごろまで
ジーンズはこんな感じの見た目でした

前回も少しお話ししましたが
超ハードワーカー向けのものでした

今回は
私達の知るジーンズの姿へと変化するお話しをして行きましょう




1905年
お尻の左側にポケットが1つ追加されました

ここに来てようやく
ファイブポケットのジーンズが完成しました

今までお尻の右側にしかポケットがなかった理由は
大半の人は右利きで、右のお尻ポケットはよく使うが
左側は使わない
不要なものを付けるのは無駄だという
機能優先のリーバイスはそう考えたのでしょう

またお尻の両方にポケットがあることで
左右対称の見た目になり
洋服としての美しさも向上しました

1922年
インディゴデニム生地の仕入れ先を
1877年から仕入れていたアモスケイグ社から
コーン・ミルズ社 へ 変更しました

デニム好きの人はコーン・ミルズという名前に馴染みがあるかもしれません
現在は社名が変更になりコーンデニム社となっています
アメリカの有名なデニムメーカーのことです
コーンミルズのお話はまた改めてどこかでさせていただきます

仕入れ先をコーン・ミルズへと変更した理由は諸説あるのですが
ジーンズの生産量が増えてきたことに伴い
アモスケイグがリーバイスの求める生産量や品質維持、納期などに対応できなくなった
デニムの品質がコーン・ミルズの方が高かった
などと言われています




コーンミルズの方が高品質で大量生産することが可能だったのでしょう

アモスケイグにとってリーバイスというビジネスパートナーを失ったことは大きかったでしょう
後にアモスケイグ社は無くなりますし
リーバイスみたいな超大口取引先に見放されたのはダメージが大きい、どころではないほどの影響だったのは間違いありません

実は1915年ごろからアモスケイグ以外にコーンミルズのデニムも仕入れて使いはじめていたらしく
リーバイス側も
「えっっっ!?コーンミルズの方がええやん!」
と思ったのでしょうね

そして同年1922年
ベルトループが付きます


時代の変化で
従来のズボンはサスペンダーで履くというものから
ベルトで締めてラフに履くスタイルも多くなってきたのです

「ベルトループが無いと困る」というお客の声に応えての変更でした
これにより、ベルトでもサスペンダーでも
履く人の好みの履き方で履けるようになりました

ベルトループがついてるが、サスペンダーボタンもついている
さらにはシンチバックもついているという
ヴィンテージファンから見るとこれ以上無い豪華な仕様になったのでした

1929年
これまで10ozデニムを仕様していましたが
コーンミルズが12.5ozのデニム生地の生産を開始します
これまで10ozが最強の生地だったが、技術向上によりもっと厚くて丈夫なデニムを生産できるようになり
それを使ったリーバイスはさらに他メーカーとの差別化をはかったのでした

1936年
レッド・タブが誕生します
日本で言う「赤タブ」のことである
この手の織りネームは以前からあったのですが
服の外側に付けるということが大変珍しいことで
おそらく世界初だと言われている

ズボンをベルトで履く人が徐々に増えたため
ベルトをしていると
せっかくのリーバイスのトレードマークである
ツーホースマーク入りのパッチが隠れてしまって
よく見えない状態になってしまうので
代わりになるパッと見てリーバイスだと分かる
目印を付け加えるために付けたのでしょう




1937年
コンシールド・リベット が採用される
日本で言う「隠しリベット」です
これは後ろポケットのリベットを生地の内側に打つことで
外側から見えなくする工夫のことです

お尻のリベットのせいで椅子や車のシートにキズが付いた
というクレームが多くなってきたことに対応してのことでした

つまり、それだけ様々なシチュエーションで多くの人がリーバイスを履く人が増えてきたという証拠でもあるのです
労働者に支持される作業ズボンではあったのですが、木樵や炭坑夫などの超ハードワーカー以外の多くのワーカーにもリーバイスが浸透していったのであった

ただこれだとパッと見、お尻ポッケットのリベットが無くなったようにしか見えないので
フラッシャーに改善を加えた
矢印で隠しリベットを打っている部分を示して
ちゃんとリベットで補強しているということをアピールしたのでいた

同じく1937年
大きな変更がもう一つありました
サスペンダーボタンの廃止です

これまで
ポケットが増えたり
ベルトループが増えたり
色んなパーツが追加されてきたリーバイスなのですが
これからは
色んなものが無くなっていくのです
なんだか寂しくもあり
洗練されたものに変化していくタイミングでもあり
そうして私達にも馴染み深いジーンズの姿へと徐々に近づいていくのです

話を戻しまして

サスペンダーボタンが廃止になった理由は
時代の変化で作業ズボンをサスペンダーで吊って履く人が少なくなったからです
使わないものを付ける意味は無いので当然の変更だとは思いますが

そこで優しさを見せるのがリーバイスです
なんと希望者にはボタンを付けるという対応をしていたのでした
リーバイス 優しいですね・・・

サスペンダーボタンは無くなりますが
なぜかシンチバックは残っていたのでした

そんなこんなで
1942年
シンチバックが廃止されます

ベルトで履く事が主流になっていたので
シンチバックはほとんど機能していなかった様です

無くなっても実用上困る人は
ほぼいなかったようです

そもそもサスペンダーで履くのが主流の頃も
シンチバックを使う人、使わない人に分かれるようなもので
改めて考えると絶対に必要なものでも無いと私は思うのですが
ズボンにはシンチバックがついているものだ
という風潮だったのだと思います

そういうことで
なぜかサスペンダーボタンが先に廃止になり
後を追うようにシンチバックも廃止になったのでした




その同年1942年
もう一つ大きな変更がありました

クロッチ・リベットの廃止です

このリベットが無くなるのです

日本で言う「股下リベット」のことです

この股下リベットが廃止になった理由も諸説あるのですが

一番有名なのが
当時のリーバイス社長
ウォルター・ハース・ジュニア が
焚き火をしている時
リベットが熱くなり
おチンチンにヤケドをする事件があって
そのことをきっかけに社長の一声で股下リベット廃止が決まった
という話です

コミカルで面白い、よく出来た話なのですが
これは半分正解、半分間違いであるというのが一番有力だそうで

もともと、「股下リベットが熱くなる」というお客さんの意見はちらほらとあったようです
社長も面白がってその話を聞いていたのかもしれないが
社長がたまたまキャンプファイヤーをしてるとき
その話をふと思い出し
自身で実験してみようという気持ちで
わざとリベットが熱くなる様な行動をしてみると
本当に熱く危ないと思ったのだ
という説です
私自身も本当にオチンチンをヤケドしたというのは
話を盛っていると思っていますが
なんにせよ面白いですね

この時点で
ほぼ大まかに言えば
私たちが見慣れたジーンズの形になったと言えます

どうでしょうか
お尻のポケットが1つの時から
みるみると変化していく様は

とても面白いと感じていただけると私も嬉しいです

そしてこれからも
リーバイス 501は変化を続けるのですが
その変化の中でも
最上級に興味深い時期があります
それは
「WW2」
第二次世界大戦 に影響をうけた501のお話しです

極限状態である戦争は
人間を変えると言われますが

良くも悪くも
ジーンズも変えてしまったのです

次回は
そんな戦争とジーパンのお話し
お楽しみに



リーバイスの悲しい出来事

前回リーバイス501という名称が誕生するまでのお話しをしました




1873年にリーバイスがリベットで補強した作業ズボンを売りはじめてから
501という名称が誕生した1890年まで
この頃のジーンズ(ウエストオーバーオールズ)は
現代の私達がイメージするジーンズとはかなり違ったデザインでした

この頃のジーンズは
本当に過酷な、危険な環境で作業をするような
リアルハードワーカーが使うようなものでもありました
洋服としての美しさ、もっと砕いて言うとオシャレかどうか、ということなんて考えておらず
なによりも機能性重視であったと言えるでしょう

前回お話ししたように
リーバイスの努力のおかげで、ジーンズは徐々に多くの人に知り渡ります
その後も
時代の変化とともに
501は徐々に形を変化させていくことになります
私たちの知るジーンズの姿へと進化していくのです

501という名称が付いた1890年
それ以降
私達の知る馴染み深いジーンズの形になるまでのお話しをしたいのですが

その前に




かなり
悲しいお話しがあるのです

今回は
そんなリーバイスにとって
悲しいお話しをしていきましょう

いきなりですが
1902年9月26日
リーバイ・ストラウス が73歳で亡くなります

リーバイは死ぬまで一度も結婚することなく生涯を終えました

社長が死ぬと息子が後を継ぐというパターンが鉄板ですが
結婚をしていないので、子供も当然いませんでした

そこでリーバイス社は親戚が継ぐことになったのでした
リーバイの姉の息子4人が経営を引き継ぐことになり
今現在でもその血縁関係者がリーバイス社の株の大部分を所有する形となっています
その一族がリーバイの子孫と言われ「ハース家」であります

アメリカの最も裕福な家族ランキングにも入るくらいお金持ちな家系のようです

個人的な意見ですが、リーバイ直系の子孫がいないのはなんだか寂しい気もします
天才は子供をつくらない、と言われることがありますが
まさにそのパターンですね




そして
悲しいお知らせが続きますが
1906年
リーバイス本社のある
サンフランシスコで大地震が発生します
日本の我々なら地震がいかに恐ろしいものか説明不要だと思います

地震の揺れでリーバイス社のビルも崩壊し
同じくして発生してしまった火災により
資料なども焼けて無くなってしまったのでした

そのために
リーバイスの歴史を知りたくて
調べる人は多いのですが
このサンフランシスコ大地震以前の資料は
ほとんど残っておらず
謎に包まれた事が多いのです

現代での情報はなんでもデジタル化して保存されていることがほとんどです
インターネットクラウドに保存するのも当たり前で
たとえ災害があっても情報はどこかに残っているでしょう
ですが当時は当然パソコンやインターネットなんてありません
紙媒体での情報管理です
火災があれば一気に消滅したことは容易に想像できますね

地震により大ダメージを受けたリーバイスなのですが
さすがはリーバイス
サンフランシスコでは誰もが知る
大企業なのです

かなりのスピードで復旧に成功したようです

間違いなく被害はあったはずですが
そんな状況でも前をむいて進むリーバイスなのでした

以上リーバイスの悲しいお話しでした
いよいよ
ついに次回
501の進化のお話しをはじめます
もったいぶってすいません

お楽しみに



リーバイス 501が誕生するまで




ジーンズといえばリーバイス 501をイメージする人も多いのではないでしょうか?

それもそのはず501は現代のジーンズの元です
501が生まれてから長いですが501のデザインは現代までほぼ変わらず受け継がれ、多くの人に受け入れられています

今回はそんな501が生まれるまでのお話しをしていきましょう
今回は特別長いお話しになりそうなので、覚悟して読んでください(笑)

前回 リーバイ・ストラウス と ヤコブ・デイビス
という2人が繋がり
リベットで補強されたズボンの特許を取得し、販売して成功した
という話をしましたが
まだその時点では501は誕生していません

1873年にリベットの特許を取り、リベットで補強された丈夫なズボンを販売開始します

1873年から販売を開始したリベットで補強したリーバイスのズボンは
パテント・リベッテッド・クロージング(和訳すると、特許を取った鋲(リベット)を打った服)という謳い文句で売られました

また当時はジーンズという言葉はまだ浸透しておらず
ウエストオーバーオールズという名前のズボンでした




生産監督であるヤコブはズボンだけではなく
ジャケットやシャツ、コートなどあらゆる服をリベットで補強した商品を開発し、パテント・リベッテッド・クロージングの商品として売り出しました

また冬にデニムやキャンバス生地1枚では寒いということで裏地に毛布(ブランケット)を張った
「ブランケット・ラインド・オーバーオールズ」という商品も作り出しました
これらも1873年のことです

このブランケット・ラインド・オーバーオールズを作ったのは暖かくて良いのですが
洗濯すると表地と裏地のブランケットが別々に浮いてしまい
特にお尻のポケットはゴワゴワ感が不快ということで
裏地が浮かないように
現在まで続くリーバイスのアイコンであるアーキュエイト(弓状)ステッチを入れて
裏地の浮きを防ぐという対策をとりました

それからは
裏地のないものでもお尻のポケットに
アーキュエイトステッチが入っている事がリーバイスのアイコンになるのでした

実はこのアーキュエイトステッチは社長のリーバイの案で
ロッキー・マウンテン・イーグル(イーグル鉱山)をイメージしてデザインされたのです




そんなリーバイ直々考案のディティールが
いまだにリーバイスのズボンの一番の象徴となっています

これからもアーキュエイトステッチがなくなることは無いでしょう
現代ではただの飾りですが、裏地の浮き防止の実用目的のデザインが始まりというのはとても面白いですよね

パテント・リベッテッド・クロージングの商品は
実際に丈夫でよく売れました

話は変わりますが
この頃、今のようにズボンにベルトをつけて履く文化はありませんでした
ほとんどの人は、サスペンダーを付けて履いていました

なのでベルトを通すためのベルトループは当時はありませんでした

当時のズボンはサスペンダーをつけるためのボタンがウエスト部分に付いているものが普通でしたし
そうやってズボンをサスペンダーで吊って履くと、ウエスト部分がブカブカになる人も多く、それを嫌がる人のために
後ろに尾錠(バックルバック)が付いているのも普通でした

リーバイスがパテント・リベッテッド・クロージングのズボンを売り出した最初の1873年は
前に付いているサスペンダーボタンが2つ、後ろに2つでしたが
翌年の1874年には前のサスペンダーボタンを4つに増やしました

サスペンダーも種類があり、前側のボタンホールが1つのものと2つのものがあり
4つあれば両方つかえるという、いかにも合理的なアメリカらしい思考での変更だったようです




また
リーバイス社はコピー商品に悩んでいました

リベットを打った同じような作業ズボンがリーバイス製よりも安く売られている事が多くなりました
現代でも「パチモン」と言われるような物が沢山ありますが、昔も同じだったようですね

そんなコピー商品を売る会社に対し
特許を持っている側のリーバイスは訴訟を起こしたりもしていましたが
リーバイス社からすると迷惑なだけでめんどくさかったようです

そういうコピー品を少しでも少しでも抑制する目的で
1875年、特許の再発行を行います
再発行とは特許の範囲を拡大させたりして特許の内容をアップデートすることなのですが
この再発行をした理由はパテント・リベッテッド・クロージングは
リーバイス社のものなのだと
強く世間に知らせる目的でした

当時のリーバイス社のカタログにも1875年に特許再取得と
アピールして書かれていました

そんな感じで
他が真似するくらいによく売れており
1876年にはパテント・リベッテッド・クロージングの売り上げが
19万ドルになり、みるみる売り上げを伸ばして行きました

面白いのが、この売り上げに驚いたのはリーバイやヤコブだけではなく
リーバイの兄であるジョーナスとルイスもおったまげたのでした

サンフランシスコのリーバイス社製のパテント・リベッテッド・クロージング
とは別に
ニューヨークの兄のJ・ストラウス・ブラザーズ製のリベットで補強したズボンも出回っていたのでした、、、

1877年にリーバイス社のパテント・リベッテッド・クロージングは大きな変革がいくつもありました

1つ目は
デニム生地の仕入れ先をニューハンプシャー州にある「アモスケイグ社」というところにに一本化したのです

パテント・リベッテッド・クロージングの商品は
主に、麻の生成りキャンバス生地 と 綿のインディゴデニム
の2種類の生地で生産していて
生地の仕入れ先は様々だったのですが
徐々にキャンバスよりデニム、麻より綿の生地の人気が高まりました

生成りのキャンバス生地は色んなとこから仕入れても
色味のバラ付きがさほど気にならなかったのですが
インディゴデニムは生産工場によって色味の違いが大きく
品質を統一することが無理でした
そんなインディゴデニム生地の人気が高くなってきたので、信頼出来る仕入れ先を1社に絞ることで品質の安定を徹底しました

その頃に「XX」(ダブルエックス)という表現をリーバイス社が使いはじめています
XXとは当時の業界用語です
ダブル・エクストラ・ヘビーの通称で当時最も丈夫だった10ozのデニム生地のことです

これが今でも語り継がれるXXのはじまりなのです




2つ目は
縫い糸を金茶色の麻糸に変更したことです
これはヤコブ・デイビスの発案で
麻糸が当時最高の強度だったということと
補強のリベットの色に合わせた色にしたという粋なアイデアです
普通なら縫い目を目立たないような青色の糸を使ったりしそうですが
リベッド同様丈夫なものを使っているアピールなのか、むしろリベット同様、目立つ色を選んだと言うのは凄いですよね

現代でもジーンズはインディゴデニム生地を金茶の糸で縫製するのが当たり前で
その金茶のステッチがアクセントになり美しさを醸し出すデザインになっています

ここまで愛されるデザインを生み出す
やはりヤコブさんは凄いセンスの持ち主だったのでしょう

3つ目は
ツーホースマークの誕生でした
2頭の馬が引っ張りあっても破けないズボンの絵のことです
リーバイス社のズボンの丈夫さをアピールするイラストです

多くの人はウエストの後ろの右側についてるパッチにデザインされたものを想像すると思いますが
最初はパッチではなくフラッシャーにツーホースマークがデザインされました

フラッシャーとは、元は「ひらひらする」という意味なのですが
新品の商品に付けられた宣伝用のチラシのことです

現代でもフラッシャーは馴染み深いですが
ツーホースマークがデザインされた最初のフラッシャーは
今よく見る紙製のものではなく、油を染み込ませた丈夫な布でオイルクロスと言われるものでした
そのオイルクロスのフラッシャーにツーホースマークと一緒に
「このXXデニムが裂けることがあれば無料で新品と交換する」
と印刷されていました

実際に無料交換がどれだけあったかは知りませんが
それだけXXデニムを使いリベットで補強したズボンの丈夫さに
絶対の自信があるという最高のアピールになりました



これらの改良によりパテント・リベッテッド・クロージングの売り上げはさらに爆増しました

1880年の
パテント・リベッテッド・クロージングの売り上げは
なんと240万ドルという規模にまでなっていたのです

その上さらに驚きの事実なのですが
実はこの240万ドルという売り上げ
リーバイス社の売り上げの半分にも満たないものだったのです
どういうことかと言うと、、、
本来リーバイス社が扱っていた洋品、生地、雑貨の売り上げの方がもっとあったのです
つまりリーバイス社はパテント・リベッテッド・クロージングだけで成功したわけでは無く
やっていた全ての商売において大成功している
ガチで凄い会社へと成長していたのでした

さらにはリーバイ・ストラウスは
サンフランシスコの様々な企業に投資もしており
色んな役員や株主に名を連ねる
誰もが認める大富豪となっていたのでした

その後もリーバイス社の成長は続きます

1886年
フラッシャーに印刷されていたツーホースマークがウエストの革パッチにデザインされるようになりました
フラッシャーは購入された後、取り外されるが
革パッチは購入後、着用中もずっと付いたままで、よく目立つウエスト部分にあるので絶好の宣伝効果を発揮しました

 

そしてXXデニムを使ったリーバイス社製のズボンは
「ナンバーワン・オーバーオールズ」
という商品名になります
後の501の元になるモデルです

この「ナンバーワン・オーバーオールズ」という名称は
似たような商品が他社から安く出ていたこともあり
「リーバイス製はたしかに丈夫だが値段が高い、もっと安いリーバイス製があればな」
という声に応えて
「ナンバーツー・オーバーオールズ」
というナンバーワンのXXデニムよりも薄手の生地を使った商品を出したものと
区別するための名称でした
このナンバーツーはのちに201の元になるモデルで
ナンバーワンの革パッチの代わりに白い麻布にツーホースマークを印刷したもので
ナンバーワンの廉価版でした




そして

その後の
1890年
さらに多くの改良が施されますが

その中で
一番注目したいことが

ついに
「501」
という名称が誕生したのでした

なぜ「501」という名称になったのかということは
いまだに解明されていません

有力な説としては
この年に新たな改良品を何種類か作り
101 201 301 401 501 というように試作品に番号をつけて
採用されたのが「501」で
501の「1」はおそらく「ナンバーワンオーバーオールズ」の「ワン」から取っている
という説があります

本当の理由は分かりません

そうやって分からない事があるというミステリアスな部分も
リーバイスの面白さではないでしょうか

ちなみにこの時点での501は
現代主流の「ファイブポケット」(前2つ+ウォッチポケット+お尻2つの計5つポケットデザイン)ではありません
この頃はお尻のポケットが1つのものが主流で1890年時点でお尻のポケットは右側1つだけでした

このようにしてリーバイス社は501という名称が付くまで
これでもかというくらいに多くのアップデートを重ねました

普通に考えると
特許を持っているんだから、そんな頑張らなくても、どうせリーバイスしか作れないんだし、普通に売ってればいいじゃん
と思う人もいるでしょう

でも逆なのです
「特許」というものは「期限」があり
期限が切れると、その技術は誰もがフリーに使えるようになるのです
そしてその期限が切れるのが
501という名称が生まれた1890年

だからリーバイス社は1890年までに
必要以上とも思える改良を重ね
リーバイス製のズボンこそが最強に丈夫で最高品質のものだと
大衆に認知させることに成功したのでした

実際、特許が切れた1890年以降も
リーバイスは作業ズボンのトップを走り続けるのです

次回はそうして生まれた501のその後についてお話しします
お楽しみに



リーバイ・ストラウスとヤコブ・デイビスの繋がり





前回と前々回でお話しした
ズボンにリベットを打って儲けたヤコブ・デイビス

商売で大きく成功したリーバイ・ストラウス

この2人が繋がることでジーンズの歴史が大きく動きます

今回はそのリーバイさんとヤコブさんがどのように繋がったのかをお話ししていきましょう

まずリベットズボンで一発当てて儲かったヤコブさんですが
嬉しいのと同時に不安もありました
今までにあったズボンにリベットを打っただけの商品です
このアイデア自体は画期的なのですが

誰でも簡単に真似できるのです・・・

真似するのに
特別な技術がいるわけでも
莫大なコストが必要なわけでもなく
今まであったズボンに、今まであったリベットを打って補強するだけなので
真似しようと思えば誰でも簡単に真似できるのです




今はヤコブさん本人しか知らないアイデアだが、だんだんと口コミで広がり
真似されて同じようなものを作る人が増えると自分が儲からなくなると思ったヤコブさんは

特許を申請することにしました

ですが
思わぬ壁が立ちはだかります
「嫁ブロック」
です
ヤコブさんは結婚しており子供もいました
今まで商売で無数の失敗をしてきているヤコブさんです
ヤコブさんの奥さんは頑なに夫ヤコブの特許申請を許さなかったのです

それもそのはず
当時の特許申請料金が68ドル
約68万円です
3ドル(約3万円)のリベットズボン23本分の値段というもので
ヤコブ・デイビス家の家計からすると超高額で
特許を取得できたとしても上手くいくかは分からないし
過去散々失敗している夫ヤコブの信用は全くなかったのでしょう
ようやく十分に儲けたお金を無駄にするようなことは、妻からするともうコリゴリだったのでしょう




ですがヤコブさんは諦めませんでした
せっかく一発当てたこのチャンスをもっと大きくしてやるという思いで
自分で特許申請ができないなら、、、
ということで
1872年7月
実業家でお金持ちのリーバイ・ストラウスへ
「とても儲かるアイデアがあるから、私の変わりに特許を申請してくれ」
という内容の手紙を送ったのでした

実はヤコブさんがズボンを作る際に使う生地はリーバイス社から仕入れており
リーバイス社の顧客の一人がヤコブさんだったのです
取引の金額はリーバイス社からするとかなり小額でした

そんな、うっす〜い繋がりから
社長であるリーバイに直接手紙を書くのって思い切った行動ですよね

手紙の内容は
10ozキャンバス生地と9ozデニム生地で作ったズボンにリベットを打った実物と一緒に
「私が発明したリベットで補強したズボンが高額でバカ売れしてる、あなたが私の名前で特許を取ってくれたら、利権の半分をあなたにあげます」
というような内容で超長文の手紙でした
文字や文章の間違いが多いもので、ヤコブさん自信で書いたのでは無く
近所の薬屋の友達に、喋ったことを文字にしてもらったみたいです
英語の文章を書く自信がなかったみたいです

そんな感じで手紙を送るという行動も
普通の人なら、失礼では、、どうせ相手にされない
と躊躇しそうなのに
本当に送ってしまうヤコブさんに驚きますが

もっと驚きなのは
その手紙を受け取ったリーバイさんの反応です




なんと
手紙を読んで、秒で特許取得に動き出すのです
ビジネスマンとして儲かるニオイがプンプンしたのでしょう

手紙を読んですぐに返事の手紙を書き
なんとリーバイさんに手紙が届いてから1週間でヤコブさんに特許の書類にサインをさせています

そしてここからが大変で
超スピードの速攻で特許申請をするのですが
なんと
特許の申請が却下されます

理由は
それよりも先に
クツの縫い目をリベットで補強する
という特許があり
それと同じと判断されたためでした

リーバイさんはリベット補強ズボンによほどの可能性を感じたのでしょう
そこでは諦めませんでした

なんとか工夫をして何度も申請を試みて
3回、申請を却下された後に
1873年5月、ついに特許取得に至ります

約10ヶ月もかけてようやく特許取得でたのです






リーバイさんがそんなに諦めなかったは
ヤコブさんのリベット補強ズボンにそれだけ可能性を感じたという事でしょう
本当に凄い執念ですね

申請が通った理由は
「ズボンをリベットで補強する」
では無く
「ポケッの開閉部をリベットで補強する」
とすることでOKになったのでした
ズボン全体でもなく、縫い目でもなく、ポケット開閉部というピンポイントに対してのことで
ようやくOKということで

ヤコブさん個人では特許取得までここまでの知恵が出なかったかもしれませんし
リーバイに頼んで良かったと言えると思います

特許取得に予想外の時間がかかりましたが

リーバイさんはおそらくですが、ヤコブさんを相当気に入っていたのだと思います
これは私の妄想ですが
ヤコブさんのアイデアはもちろん、ヤコブ・デイビスという人物に惚れ込んでいたのだと思います




その理由として
特許取得前にも関わらず、ヤコブさんをリーバイス社の社員として雇い初めていたのです
リーバイスの新商品としてリベット補強ズボンの生産監督としてリーバイス社へ迎え入れたのですが
特許の認可が下りた1873年5月よりも早い
4月に、ヤコブさん一家揃ってリーバイス社のあるサンフランシスコへ引っ越してきているのです
リーノの家も引き払って引っ越してきているので、もっと前の時期から特許取得が決定する前からリーバイス社の社員として働く話があったのでしょう
仮に特許の認可が下りなくても、リベット補強ズボンを生産販売する予定だったと思います
このことからリーバイさんの中ではヤコブさんの作るものは売れる、という確信があったのだと思います

そうしてヤコブ・デイビスを迎え入れたリーバイス社は
リベットで補強したズボンの販売をはじめることになります
そのズボンはリーバイの予想を上回る以上にとてもよく売れました

ですがこの時点ではまだみんなが知っている501のようなジーンズはできていません

次回は501というものがどのようにできたのか
というお話しをしようと思います
お楽しみに



リーバイ・ストラウスという人物





ジーンズといえばリーバイスをイメージする方は多いと思います
リーバイスという会社は
リーバイ・ストラウス という人が作った会社です

前回お話しした、ジーンズを発明したヤコブ・デイビス
今回お話しするリーバイ・ストラウス
この2人はジーンズの起源を知る上で欠かせない人物です

先に言っちゃうのですが
この2人が繋がる事で
今も多くの人に愛されるリーバイス 501はこの2人から生まれることになります

今回はそんなリーバイ・ストラウスという人物のお話しをしましょう

リーバイさんは1829年ドイツのババリアのブッテンハイムという町で生まれたユダヤ人です
ヤコブさんもそうですが、ユダヤ人でビジネスマンとして優秀な人が多いと言われるのがなんとなくわかりますね(笑)




1847年18歳のリーバイ青年は移民としてアメリカのケンタッキー州レキシントンに行きます
ここで生地や糸、針などを売る行商人として商売を始めます

リーバイは1年ほど行商人として商売をしたのち、このままでは上手く行きそうにないと思います

リーバイにはルイスとジョーナスという実のお兄さんが2人いました
2人ともアメリカ、ニューヨークで洋服などを売る商売人をしていて、リーバイよりも先に商売でそこそこ上手くいっていたのでした
お兄さんの元で手伝いをすることにして、商売のコツや用品の知識を覚えたそうです

その修行を終えた後の1853年、サンフランシスコに移り新しく商売をはじめます

当時1849年からはじまったゴールドラッシュと言われることが起こっていました
サンフランシスコで金が発掘され、フォーティーナイナーと言われる人たちが、金を掘り当てて一獲千金を狙い
世界中から大量の人がサンフランシスコに押し寄せていました
急激な人口増加による物資不足により物価が高騰しており
サンフランシスコではニューヨークの3倍の値段で物が売れたと言われています

そんなサンフランシスコに目を付けてリーバイさんは商売で大儲けしました
ニューヨークのお兄さんから商品を仕入れるので、売る物が無いという心配もなく
超高値でなんでもすぐに売れたようです




1866年には超豪華なリーバイス社のビルをサンフランシスコに建てるまでに成長し
有名な実業家へと成り上がったのでした

扱っている品物も色々で
洋服はもちろん、フォーティーナイナー向けの作業服(この時点では当然リベットは打たれていない)
デニムやキャンバス生地はもちろん色んな生地から
雑貨品、多種多様な物を揃え
良品ばかりだと評判もとても良かったようです
リーバイの店で買えば間違いない、とまで言われていました

そんな感じで商売を大成功させていたリーバイさんと
同時期、リベットを打ったズボンで儲かりはじめたヤコブさん
後に、この2人が繋がることでまた新しい事が起きます

次回は
リーバイ・ストラウス
ヤコブ・デイビス
この2人が繋がり、ジーンズの歴史が大きく動くお話しをさせていただきます
お楽しみに



ジーンズの発明者 ヤコブ・デイビス





私はジーンズと言われる洋服が大好きです
そう思う人は老若男女問わず多いはずです
そんな中でも私はジーンズマニアと言われる部類の人間だと自負しています
カッコいいと思えるジーンズを履いて楽しむだけでも十分ですが
そんな大好きなジーンズの歴史やウンチクを知る事でよりジーンズを楽しむことができると思っています

このブログでそんな歴史やウンチクを書いていこうと思いますので
ぜひ読んでください
大好きなジーンズがより大好きになると思います




ジーンズの発明者 ヤコブ・デイビス

ジーンズと言うとリーバイス501が世界最初のジーンズだと思っている方も多いかもしれません
これは間違ではありませんが、正解でもありません
世界で最初にジーンズを発明したと言われている人物は「ヤコブ・デイビス」(ジェイコブデイビスとも言われる)という方です
今回はそのヤコブさんについてのお話をしていきましょう

ヤコブさんが世界初のジーンズを発明したと言われる理由は
世界で初めてズボンにリベットを打ったとされているからです

リベットとはポケットとかに補強のために打たれている鋲のことです

ジーンズとは
簡単に言うとデニム生地で作られたズボンをリベットで補強されたものを言います

当時リベットで補強するということが画期的だったのです

リベットは馬具などに使われてはいましたが
ズボンの補強に使うという考えはなかったのです

そのヤコブさんがどうしてズボンにリベットを打ったのかお話ししましょう

ヤコブ・デイビスはラトビア共和国の首都リガで1831年に生まれたユダヤ人です
1854年にアメリカンドリームを掴もうと、ニューヨークへ移民としてやってきました
それから様々な商売にチャレンジしたようです
酒を売ったり、煙草を売ったり、色んなことに投資をしたり
かなりのチャレンジャーではあったのですが
一攫千金を狙ってうまく行かなかった移民の一人でした

色々していく中でニューヨークから色んな場所を転々としまくります
オーガスタを経てサンフランシスコ、ウィーバーヴィル、カナダ、ヴァージニア・シティ
1868年にはネバダ州のリーノの町で静か〜に仕立て屋さんをしてました




そのときヤコブさんは37歳、全く裕福ではなかったようです
仕立て屋さんというと、洋服を仕立てる職人さんですが、それだけでは食べていけないので
馬の服や、幌やテント等、注文があればなんでも作っていたようです

そんなヤコブさんに転機が訪れたのが1870年12月です
木樵(きこり)の奥様が
「旦那のズボンがすぐダメになって困ってるから長持ちするめっちゃ丈夫なズボンを作ってください」
という注文のお客さんがきました

ズボンを履く本人ではなく奥様が来たので、ズボンの寸法が分からなかったので
紐を渡して採寸してきてくるように頼み、後日採寸した紐を持ってきてもらい
値段は3ドルで、ということで決まりました

ヤコブさんはかなり張り切ってつくったようです
その理由は値段が3ドルだからです

当時ズボンで3ドルというのはかなり高額な値段で
現代の日本円でいうと約3万円くらいです
そう聞くと凄い値段ですよね

そこでヤコブさんは当時、強度が最強だといわれてた10oz生成りのキャンバス生地を使い
丁寧にしっかりと作ったようです

キャンバス生地の丈夫なズボンが出来上がったのですが
ヤコブさんも「さすがに3ドルは高かったかな〜」という気持ちがあったみたいです

木樵の奥様が「ポケットのまわりなんてすぐ破れる」と言っていたのを思い出し
ちょっとしたサービス感覚で、余っていたリベットをポケットや破けやすいとこの補強に打ちつけました
そうして3ドルで作ったリベットで補強されたズボンが生まれました
そのズボンは実際とても丈夫で木樵の旦那も大変気に入り喜ばれました




ヤコブさんがびっくりしたのはその後でした

木樵の旦那がリベット付きズボンを履いて仕事をしていると
今までに無い丈夫なズボンであることが口コミで広がり
ヤコブさんのもとにリベットを打ったズボンの注文が段々と増えてきたのです
リベットズボン1号を作ったのが12月
翌月の1月には4本の注文があり、2月には10本
1年半で役200本売れたと言われています
普通のズボンにリベットを打っただけのズボンが超高額でバカ売れし始めたのです

何気なくサービスでリベットを打ち付けただけなのに、こんなに儲かることになるとは思っても見ませんでした




そんな中で最初に作ったキャンバス生地ではなく
インディゴの9ozデニム生地を使ったズボンも作り
現代の私たちがイメージするジーンズの原型ができたとされています

ちなみに9ozのデニム生地で作ったリベット補強ズボンは2ドル50セントだったようです
10ozキャンバス生地の方が3ドルなので
当時はキャンバス生地の方が丈夫で値段が高かったというのも面白いですね

以上ヤコブさんがジーンズを生み出した最初のお話でした

次回はそんなヤコブさんが発明したリベットで補強したズボンとリーバイスのつながりについてお話しようと思いますのでお楽しみに